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下山大工の歴史の中の
大きなできごと


しもやまだいくのれきしのなかの
おおきなできごと


2. 職業出入 〈2〉
 45年後の文政(ぶんせい)6年(1823)になると、町方(まちかた)大工がまた、同じ内容の要望を訴え出ます。 在方(ざいかた)大工の側も、下山村の重左衛門(じゅうざえもん)と樋田(といだ)村(身延町樋田=旧下部町)の仲右衛門(なかえもん)が中心になって、町方大工の要望を取り消してくれるようにと訴えました。 しかし、甲府勤番支配(こうふきんばんしはい)の鍋島伊予守(なべしま・いよのかみ)・酒井大隅守(さかい・おおすみのかみ)は、在方大工にとって不利な決定を下しました。

 決定が下された1ヵ月後には、御触書(おふれがき)が発令されました。 御触書の内容は、「在方大工が甲府で仕事をする場合には、甲府の役引(やくびき)大工の許可を得ること」というものでした。 これは事実上、在方大工が甲府で仕事をすることは無理だということです。
 在方大工側は、308人の下山大工が中心となって、河内(かわうち)大工1514人で組合を作って対抗(たいこう)しました。 下山大工の308人という人数は、当時の下山村の仕事をしている男性の8割に当たる人数です。

 在方大工たちは市川代官所(いちかわだいかんしょ)を通して甲府勤番に訴え続けましたが、訴えを取り上げてもらえませんでした。 そのため文政7年(1824)、重左衛門と仲右衛門は在方大工909人の代表として江戸(えど)へ行き、勘定奉行(かんじょうぶぎょう)の曽我豊後守(そが・ぶんごのかみ)に訴え出ました。
 その取り調べは長引き、2年たっても奉行所(ぶぎょうしょ)は答えを出しませんでした。 そのため重左衛門は文政9年(1826)、ついに老中(ろうじゅう)水野出羽守(みずの・でわのかみ)に?語彙集籠訴(かごそ)をします。

 その結果、町方大工の代表6人と、125の村の在方大工代表の重左衛門、文蔵(ぶんぞう)、仲右衛門との間で和解の文書が取り交(か)わされることになりました。 数百年続いていたしきたりの通りに、在方大工が甲府で自由に仕事をすることができるようになったのです。
(「下山大工の歴史の中の大きなできごと」終わり)

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