- 穴山梅雪 【あなやま・ばいせつ】
- 天文10-天正10(1541-82)。 武田氏の武将で名は信君(のぶきみ)。 信友の子で母は武田信玄の姉、妻は信玄の娘。 逸見(へみ)穴山領、東西河内領、国中中郡支配を経て、天正3年(1575)以後は駿河(するが)江尻以東を支配した。 天正10年(1582)、武田家滅亡の間際に徳川家康に降り織田信長に謁見(えっけん)。 本能寺の変に遭い帰国の途中、山城宇治田原で一揆勢(いっきぜい)により殺害される。 跡を継いだ子の勝千代信治は16歳で逝去(せいきょ)、天正15年(1587)に穴山家は途絶えた。
- 石川七郎左衛門 【いしかわ・しちろうざえもん】
- 下山大工を代表する江戸時代(寛政から文政ころ)の人。 『匠家雛形増補初心伝(しょうかひながたぞうほしょしんでん)』を著した。 彫刻にも優れ、下山長谷寺(焼失)の向拝の木鼻や狛犬(こまいぬ)などを遺(のこ)す。
- 甲斐国志 【かいこくし】
- 甲斐国の地誌を記した全71冊からなる文書。 文化3年(1806)、江戸幕府の命を請(う)けた当時の甲府勤番支配松平定能(まつだいら・さだまさ)により編纂(へんさん)が開始、およそ10年の年月をかけ完成された。 各村ごとに人口・地理・産業・史蹟(しせき)・寺社・人物などが仔細(しさい)に調査されており、山梨の歴史を知る際に欠かすことのできない貴重な資料とされている。
- 河内領 【かわうちりょう】
- →九筋二領
- 九筋二領 【くすじにりょう】
- 近世における甲斐国の行政区画。
九筋は甲府盆地一帯の地域を9つの区域に分けたもの(「栗原筋」「万力(まんりき)筋」「北山筋」「逸見(へみ)筋」「武川(むかわ)筋」「大石和(おおいさわ)筋」「小石和(こいさわ)筋」「中郡(なかごおり)筋」「西郡(にしごおり)筋」)。
二領は都留郡に相当する「郡内(ぐんない)領」と九筋の南側の地域に相当する「河内(かわうち)領」。 「河内領」のうち富士川以西(巨摩郡部)を「西河内領」、富士川以東(八代郡部)を「東河内領」と称した。
- 県令 【けんれい】
- 明治4年(1871)の廃藩置県(はいはんちけん)により県に置かれた長官のことで、明治19年(1886)に知事と改称された。
- 小宮山弥太郎 【こみやま・やたろう】
- 文政11年(1828)、塩山市塩後生まれ。 島村半兵衛のもとで建築・彫刻を学んだのち、徳川一門である田安家の作事頭となる。 明治6年(1873)に山梨県令として着任した藤村紫朗の勧奨(かんしょう)により、洋風建築の建物を造り始める。 梁木学校、琢美学校、勧業製糸場、師範(しはん)学校、県立病院、静岡裁判所甲府支所など。 明治20年(1887)に愛媛(えひめ)に転任した藤村県令に招かれて、愛媛県内にも諸官庁を造ったといわれる(太平洋戦争の空襲により現存しない)。 大正9年(1920)没。
- 角倉了以 【すみのくら・りょうい】
- 安土桃山から江戸時代初期にかけての京都の豪商。 安南(アンナン=ベトナム)との間で朱印船(しゅいんせん)による貿易を営む。 河川の開発に従事し、富士川や天竜川の水路を開く。
- 藤村紫郎 【ふじむら・しろう】
- 弘化2-明治41(1845-1908)肥後(ひご)熊本藩生まれ。 黒瀬市左衛門の二男、のち同藩士萓野家養子。 脱藩(だっぱん)し王政復古の運動に参画、明治維新(いしん)の折、藤村に改姓。 徴士(ちょうし)内国事務局権判事、監察司知事、大阪府参事を経て明治6年(1873)山梨県県令となり、 明治20年(1887)に愛媛(えひめ)県知事に赴任するまでの14年間県政を担当。 勧業製糸場、勧業試験場、藤村式建築の小学校などを設立、道路の整備など、殖産興業(しょくさんこうぎょう)に努め文明開化政策を積極的に行なうが、強引な施策への批判が上がり、明治14年(1881)の政変後は県政の勢いが衰える。 のち貴族院議員に任命、男爵(だんしゃく)位を授爵、熊本農工銀行頭取(とうどり)に就任。
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