身延の民話




【地区】
古関
旧下部町
古関地区

【ジャンル】
由来
由来

【出典】 『富士川谷物語』 (加藤為夫、山梨日日新聞社 1987)
方外院の鐘
 ほうがいいんのかね

 昔、本栖湖畔(もとすこはん)の長崎の方外庵(ほうがいあん)を、古関(ふるせき)川筋(かわすじ)の村へ移そうということになった。釜額(かまびたい)、中ノ倉(なかのこうら)、古関、瀬戸の四ヵ村の名主(なぬし)が集まり、日を定め、その朝一番早く、観音堂(かんのんどう)へ行き着いた者の村に移す約束をした。

 その日の前日、瀬戸村以外の三ヵ村の者たちは、翌朝早いからと、日のあるうちに眠ってしまった。三ヵ村の者たちが当日の早朝、先を争って中ノ倉峠への道を登っていくと、瀬戸村の者が、大八車(だいはちぐるま)を引いて道を下って来るのにぶつかった。

 瀬戸村の者は、三ヵ村の者たちが眠り込んでいるすきに、抜けがけをして、方外庵へ出かけていたのだった。

 くやしがった三ヵ村の者たちは、「なんぼなんでも重てえ大鐘(おおがね)だきゃあ、残っているら」と、道を駆(か)け登って行った。すると、瀬戸の者が、大鐘を担(かつ)いで下って来た。

 三ヵ村の者たちは、大勢で鐘を奪(うば)い取ろうとして、瀬戸村方ともみ合いになり、鐘の荷縄(になわ)が切れてしまった。瀬戸方はすかさず、竜頭(りゅうず)に綱(つな)を通して、引きずって村まで逃げた。

 瀬戸村では土地を選んで、本堂と鐘楼(しょうろう)を建て、寺域(じいき)を「寺中(じちゅう)」と名づけた。

 今も、引きずった時の疵(きず)が、方外院鐘楼の鐘に残っている。

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