身延の民話




【地区】
曙
旧中富町
曙地区

【ジャンル】
笑い話
笑い話

【出典】 『中富の民話』 (中富町教育委員会 1989)
村の境
 むらのさかい
 町内の境立てについて、現在に伝わるおもしろい話がある。

 遅沢(おそざわ)柿草里(かきぞうり)より現在の遅沢へ移住した川崎左右衛門(かわさき・そうえもん)を祖先とする一族がいた。

 また、飯富(いいとみ)には古屋弥治右衛門(ふるや・やじえもん)の一族がいて、享保(きょうほう)年間、ある時、飯富方(かた)と遅沢方で会い、飯富と遅沢の村境(むらざかい)を定めようと日を決めて、寅の刻(午前4時)に、各住居を出発して途中(とちゅう)行き会った所を境界(きょうかい)点とすることにした。

 約束の日に、飯富から遅沢へ、遅沢方は飯富へと(飯富方は馬で、遅沢方は牛だと伝えられている)それぞれ向かった。しかし、遅沢方より行けども途中で会わず、とうとう飯富方の屋敷(やしき)まで行き、
 「村境はどうする?」
 の問に、飯富方が驚いて飛び起きて、愛馬(あいば)に一鞭(ひとむち)とは出来ず、
 「ここは屋敷だ、少ししゃってくれ」
 と、遅沢方は飯富氏神様(うじがみさま)まで来て、
 「ここにするか?」
 飯富方は
 「ここは村の氏神様だ、困る、もう少ししゃってくれ」
 と言って両者が来たのが、平兵衛岩より遅沢寄り400メートル、旧早川橋より飯富寄り2キロメートル地点が、古い話の境界点として言い伝えられている。

 それを立証(りっしょう)する話がいくつかある。

 道路修理を各村ごとに人足(にんそく)が出て行った時代、遅沢の範囲(はんい)が広かったので、「先祖が欲張りだから、村の衆(しゅう)が苦労する」などと不平が出たこともあった。

 また、一つの例えとして昭和34年7月、山梨も大きく被害(ひがい)を受けた台風の後に、早川河原に残された流木(りゅうぼく)は量も多かった。その時、この境に立って身延町粟倉(あわぐら)下に手を直角にして、上の流木が遅沢、下が飯富分として、流木を取得した事実も、初老の人はみんな知っている。

 このような時は、遅沢方からも飯富方からも不平不満の話も出ない。牛に乗り、馬に乗って落ちついた境立ての話を現在の世代の皆様へもお聞かせしたい。

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