身延の民話




【地区】
原
旧中富町
原地区

【ジャンル】
神仏
神仏

【出典】 『富士川谷物語』 (加藤為夫、山梨日日新聞社 1987)
御所からきた不動明王
 ごしょからきたふどうみょうおう
 八日市場(ようかいちば)村、三守皇山(さんしゅこうざん)大聖寺(だいしょうじ)の本尊(ほんぞん)不動明王(ふどうみょうおう)は、富士川谷にかがやく唯一(ゆいいつ)の国の重要文化財である。この不動明王に祈りをこめた多数の人物が、歴史に登場する。

 甲府盆地(ぼんち)の西南部から富士川谷を地盤(じばん)としていた甲斐源氏(かいげんじ)の加賀美遠光(かがみ・とおみつ)が、高倉天皇(たかくらてんのう)の時「大番(おおばん)」に召(め)された。遠光が京都御所(ごしょ)の警護(けいご)にあたっていた時、毎夜、車輪形で光芒(こうぼう)を放つものが現われその光を受けて帝(みかど)は病気になった。

 帝の命(めい)を受けた遠光は清涼殿(せいろうでん)に鎮座(ちんざ)する不動明王に祈り、甲斐源氏に伝わる「蟇目鳴弦(ひきめめいげん)の術(じゅつ)」で妖異(ようい)を退散させた。遠光は病の癒(い)えた帝から、この不動明王尊像(そんぞう)を賜(たまわ)った。この尊像は嵯峨(さが)天皇(在位809-823)の発願(ほつがん)により、弘法大師(こうぼうだいし)空海(くうかい)が「一刀三礼(いっとうさんらい)」によって彫刻(ちょうこく)したもので、以来、内裏(だいり)守護尊として清涼殿に安置してきたのであった。

 大聖寺寺記(じき)によれば、この尊像の下賜(かし)は嘉応(かおう)3年(1171)正月26日。大番の任を果たし、帰国の途(と)についた遠光は、近江(おうみ・滋賀県)に賜った所領で、堅田(かただ・片田)一族を家人(けにん)に加え旅を続け、駿河(するが)から富士川を北上した。一行が八日市場から切石(きりいし)間の「日下(ひさが)り」を通過中の真昼時、にわかに太陽が光を消し、天地暗黒となった。その暗闇中に現われた一人の童児が「自分はこの明王の使者である。有縁(うえん)の地であるここに明王をまつれ」と告げて姿を消した。

 一帯を調べると、八日市場に先祖の新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)の開基(かいき)した寺があったので、ここに堂を建ててまつった。昔の日下り道に、不動平、不動岩がある。片田一族は河内(かわうち)に定住し、大聖寺の「鍵取(かぎと)り」となった。明王尊像は等身大の座像で、高さ84.4センチ、桧(ひのき)一本造(いっぽんづく)りの平安期の作仏である。

 大聖寺外護(げご)は、遠光の子長清(ながきよ)の小笠原(おがさわら)氏(礼法小笠原流宗家)、武田氏、穴山氏と続いた。元禄(げんろく)9年(1696)を最初とする、尊像の江戸出開帳(でがいちょう)は、将軍綱吉(つなよし)の母桂昌院(けいしょういん)の発願に始まるものであった。

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