身延の民話




【地区】
西嶋
旧中富町
西嶋地区

【ジャンル】
笑い話
笑い話

【キーワード】
富士川・屏風岩
富士川・屏風岩
【出典】 『富士川谷物語』 (加藤為夫、山梨日日新聞社 1987)
おどれの木
 おどれのき

 徳川家康(とくがわ・いえやす)が、京都の角倉了以(すみのくら・りょうい)に、鰍沢(かじかざわ)から岩渕(いわぶち)まで十八里(約72キロ)の舟運(しゅううん)を開かせたのは、約四百年も前のことだが、この富士川舟で、甲州(こうしゅう)の年貢米(ねんぐまい)は村々の名主(なぬし)がついて、岩渕、清水(しみず)港、江戸へと運ばれた。

 上り舟は岩渕から塩を積んで来たので、下げ米、上げ塩と呼ばれた。富士川舟は市川代官所(だいかんじょ)の支配だったので、代官所の役人が、役目で乗ることが多かった。

 ある時、鰍沢から役人が乗り込んだ舟が、急流を左岸(さがん)の楠甫(くすほ)村まで下って来た時、役人は右岸(うがん)の麓(ふもと)にそびえる大木(たいぼく)を見て「あれは何の木か」と船頭(せんどう)に聞いた。船頭は、役人の指さす蟹谷沢(かにやざわ)の方角を見回し、気をきかしたつもりで「おどれでござる」と尋(たず)ねた。

 その後、ここを川舟で上下する役人たちはその大木を見ては「あれが、おどれの木だ」と言って通り過ぎた。この木は蟹谷沢口から数十メートル北の山すそに繁(しげ)っていた欅(けやき)の巨木(きょぼく)だったが、明治のはじめに材木屋に買い取られ伐採(ばっさい)された。

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