身延の民話




【地区】
大河内
旧身延町
大河内地区

【ジャンル】
悲話
悲話

【出典】 『ふるさと身延 第2集』 (身延町福祉の町づくり推進協議会 1983)
牛裂きの娘
 うしざきのむすめ
 鎌倉(かまくら)時代、帯金(おびかね)村に帯金刑部(ぎょうぶ)亮という豪族(ごうぞく)がいて、時の人々は帯金どのと称(しょう)しており、頼朝(よりとも)の富士の巻狩(まきが)りにも参加した程(ほど)の人であったということである。

 その子孫某(ぼう)に、妙貞(みょうてい)という娘(むすめ)があって、絶世(ぜっせい)の美人とまでいわれ、年頃になると、あちらこちらから、貰(もら)い手が降る程(ほど)現われたが、帯に短し襷(たすき)に長しでどれもこれも断った。

 ところが父は、出陣(しゅつじん)中智勇兼備(ちゆうけんび)の立派な武士を見付け、娘との結婚を約束したが、帰郷(ききょう)してみると、なんと留守宅(るすたく)では、隣郷(りんきょう)常葉(ときわ)の大庄屋(おおじょうや)の息子(むすこ)と婚約(こんやく)が結ばれていた。

 武士の面目(めんぼく)と義理(ぎり)にからまれた父は、どちらも無下(むげ)に断ることもできず、思案(しあん)にくれていた。

 妙貞は、板ばさみになった父の心情(しんじょう)を察(さっ)し、自分の心中(しんちゅう)深く決したことを父につげ、双方(そうほう)へ結婚の日を定めて通知した。

 当日、婚約した二人が同時に訪(おとず)れると、父親は、二頭の牛の尾に妙貞の両方の足を一本ずつ堅(かた)く結びつけて、むちでその牛の尻(しり)を鋭(するど)く打った。打たれた牛が苦しさに両方にとびだすとたん、妙貞の身体(からだ)は二つに裂(さ)けた。

 これで妙貞は、双方に義理を立てたのである。

 関係者と村人は、妙貞の心情を憐(あわれ)んで、厚くその遺体(いたい)を葬(とむら)って供養(くよう)し、御屋敷(おやしき)という帯金氏の邸跡(やしきあと)に碑(ひ)を建てた。

 墓は苔(こけ)むして文字も不明であるが、女人が首をかたむけて、思い悩(なや)むさまを刻(きざ)んであったのがかすかに見え、村人は御妙貞(おによてん)様と称し、世の貞節(ていせつ)の鏡としてこの悲惨(ひさん)な物語を伝えている。

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