身延の民話




【地区】
大河内
旧身延町
大河内地区

【ジャンル】
由来
由来

【キーワード】
富士川・屏風岩
富士川・屏風岩
【出典】 『富士川谷物語』 (加藤為夫、山梨日日新聞社 1987)
鼻黒舟
 はなぐろぶね

 徳川家康(とくがわ・いえやす)が、京都の角倉了以(すみのくら・りょうい)に命じて、鰍沢(かじかざわ)から岩渕(いわぶち)までの富士川十八里(り)の舟運(しゅううん)起工を命じたのは、慶長(けいちょう)12年(1607)である。

 舟運が開かれて間もなくのころ、舟大工(ふなだいく)たちが寒風吹きすさぶ富士川河岸(かし)で、御用船(ごようせん)の高瀬船(たかせぶね)を造っていた。風と寒さで仕事に難儀(なんぎ)をし、納期(のうき)までに仕上げるのに苦心していた。

 そこへ通りかかった和田村のお大尽(だいじん)が、気の毒に思い「広くもないが、家の土間(どま)を使ってくれ」と言ったので、舟大工たちは喜んでそこに移り、納期に間に合うよう舟を仕上げた。

 ところが何のはずみか、真新しい舟の舳(へさき)へ、べっとりとかまどの炭をつけてしまった。どうしても炭が消せず、さあ大変だと、一同が思案(しあん)にくれよわりきっているところへ、役人がやってきて話を聞き、お大尽の計(はか)らいに心をうたれ「心配いらぬ。黒沢(くろさわ)河岸へつなぐ東河内領(ひがしかわうちりょう)の御用船の舳は、すべて真っ黒に塗(ぬ)らせるから」と言ってくれた。

 それ以後、富士川舟のうち、東河内領にかかわる御用船は、すべて舳を黒く塗って「鼻黒舟」と呼ぶようになった。

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