西行桜 ─ シダレザクラの可憐さ
その西行だが、京都と大阪の南河内にそれぞれ「西行桜」と名付けられた名桜がある。一つは洛西の通称花の寺・勝持寺で、…(略)…
西行は保延6年(1140)、この寺に入って出家している。保延6年といえば崇徳帝治下の文学サロンの最後の年である。…(略)…春、この参道はヤマザクラの花盛りになる。花の寺の名称はこのヤマザクラに負っている。その歌人としての生涯を桜愛に生きた西行が出家した寺にいかにもふさわしい。かつて、山中の本堂前には、西行手植えの西行桜があったが枯死し、現在のさくらは新たに植樹されたものだ。花は平安末期から鎌倉初頭にかけて、貴族たちに愛されたシダレザクラであった。
…(略)…有名な近衛
(このえ)の糸桜はこのシダレだった。おそらくこの新しいさくらは、その樹相と愛らしさから平安の貴族たちを魅了したに違いない。
西行もその一人だったろうか。
…(略)…
シダレザクラの雨に濡れるとき、また、朧月夜にその白い可憐な花を浮かびあがらせるとき、そこにはヤマザクラにはない繊細な、いわば雅といった風趣がある。ヤマザクラと大きく異なるのは、開花の後に嫩葉
(わかば)の芽立ちが見られることだ。つまり、ヤマザクラのように嫩葉と花が同時に混在することなく、その細く伸びた枝に花だけが開花する。その風姿にはヤマザクラに見られた野生が充分矯
(た)められている。貴族たちが競ってこの新しい品種のさくらを愛したのは珍しさではなく、彼らの心情をそのまま花の形にして見せた理想のさくらだったからであろう。西行のさくらがシダレザクラであったことはむしろ当然過ぎて、多弁を要さないだろう。
その西行桜はもう一個所ある。そこは大阪の南河内郡の河南町の弘川寺
(ひろかわでら)で、…(略)…
文治6年(1190)2月16日、この弘川寺で73歳の生涯を終えている。
…(略)…
弘川寺の寺歴は古い。天智帝の4年(665)、あの吉野山開山の役小角が、ここで薬師像を刻んて安置したのを開基とする。ということは、吉野のさくらにゆかり深い寺であり、また、西行の仕えた鳥羽院の病気平癒を祈った勅願寺だったことも、いかにもさくらの唯美者にふさわしい終焉の地だった。
小川和佑著 『桜の文学史』 * 漢数字をアラビア数字表記に変えてあります。