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下山大工史年表

しもやまだいくしねんぴょう

主な作品(地名の記載がないものは「下山」)
三郡出入に関するできごと 職業出入に関するできごと
その他の下山大工に関するできごと 下山に関するできごと
 年代  できごと
作品・関連人物

1200 01-04(建仁年間) 下山小太郎光重が領主として下山に住み着く
19(承久元) 石橋八幡神社(笛吹市境川町)再建/七郎二
1250 74(文永11) 南部六郎実長(波木井公)が日蓮聖人を身延に迎え、身延山を建てる
82(弘安5) 日蓮聖人入滅
89(正応2) 日興上人身延から富士へ
90(正応3) 大石寺(富士宮市)六壺の間/石川某
1500 32-54(天文年間) この間の早い時期に穴山信友が河内領支配、下山に築城
1550 80(天正8) 穴山信君(梅雪)が河内路(みのぶみち)を整備、宿駅として栄える
82(天正10) 武田氏滅亡
87(天正15) 穴山氏滅亡
96(文禄5|慶長元) 諏訪神社(南部町)/竹下源三
1600 07(慶長12) 角倉了以が徳川家康の命により富士川の舟路を開く
21(元和7) 一宮賀茂神社本殿/竹下喜兵衛
32(寛永9) 大石寺(富士宮市)御影堂/石川与十郎
38(寛永15) 長遠寺(平須)本堂/石川久左衛門・石川忠次郎・石川與九郎など
1650 21(元和7) 大聖寺(八日市場)外陣/石川杢左衛門
32(寛永9) 一宮賀茂神社本殿再建/川傳右門・佐野甚右衛門・松村次兵衛
38(寛永15) 神部神社(甲州市塩山)本殿/竹下平兵衛・竹下勘之丞
1700 1700初め 江戸白銀台御殿造営請負についての争い
04(宝永元) 江戸白銀台御殿/石川五左衛門
17(享保2) 大石寺(富士宮市)三門/石川万右衛門
23(享保8) このころまでに太子講成立
25(享保10) 神部神社(甲州市塩山)神殿/遠藤与兵衛
28(享保13) 太子堂建立
40(元文5) 太子講分裂
1750 55(宝暦5) 太子講統一の試み決裂幸内・久左衛門派による反対派の仕事差し止め反対派、上飯田役所へ訴え幸内・久左衛門派、上飯田役所へ訴え
56(宝暦6) 甲府町方大工、在方大工のの城下流入阻止を申請
65(明和2) 下山村を市川代官所が治めるようになる
66(明和3) 妙泉寺(矢細工)飛天像/惣兵衛
67(明和4) 甲斐善光寺(甲府市)三門/石川久左衛門
78(安永7) 町方大工、在方大工の締め出しを申請在方大工、甲府勤番所へ訴え反対派、幸内・久左衛門派に甲府城修復を命じないよう役所に訴え、却下される
79(安永8) 在方大工の城下での仕事を認める判決反対派、三郡棟梁権を認めないよう評定所へ箱訴、訴状焼き捨て反対派、市川代官所へ訴え
81(天明元) 「大工仲間連判」作成反対派駕籠訴両派和解の証文を奉行所へ提出幸内・久左衛門派の独裁支配全面停止、三郡出入の決着
81-88(天明年間) 本国寺古仏高祖御厨子/石川久左衛門
87(天明7) 龍雲寺本堂・庫裡/望月角右衛門
89(寛政元) 甲斐善光寺(甲府市)本堂/石川政五郎・石川太左衛門
93(寛政5) 諏訪神社(甲州市大和町)本殿/土橋文蔵・松木萬右衛門・望月忠蔵
97(寛政9) 本国寺本堂/石川久左衛門山門/竹下源蔵
98(寛政10) 中牧神社(山梨市牧丘町)本殿/望月彦次郎
1800 02(享和2) 金桜神社(甲府市)神楽殿/石川政五郎
04-18(文化年間) 今諏訪神社(北杜市白州町)本殿/遠藤藤吉長谷寺向拝木鼻/石川重甫・望月文右衛門
07(文化4) 「大工仕法之事」19ヶ条成立
09(文化6) 「太子講定」27ヶ条成立
10(文化7) 新生統一太子講成立
12(文化9) 本国寺磬架/石川七郎左衛門匠家雛形増補初心伝/石川七郎左衛門
23(文政6) 「大工仲間人別帳」作成(あるいは着手)町方大工による在方大工締め出し申請が認められ、その旨のお触れが出る在方大工、市川代官所へ訴え
24(文政7) 在方大工、甲府勤番所へ訴え在方大工、勘定奉行へ訴え
26(文政9) 在方大工、駕籠訴町方大工・在方大工和解、職業出入の決着
30(天保元) 妙善寺(増穂町)本堂/遠藤藤吉
31(天保2) 若宮八幡神社(西嶋)本殿/石川七郎左衛門・松木運四郎・石川音平など
37(天保8) 青原院(西嶋)欄間彫刻鴟吻(しふん)頭竜/石川七郎左衛門
43(天保14) 八幡神社(八日市場)本殿/松木運四郎など
1850 56-61(安政3〜文久元) 小室山(増穂町)本堂・鐘楼/松木左内
61(文久元) 佐久神社(笛吹市石和町)/松木左内・松木運四郎
63(文久3) 一宮賀茂神社本社殿/牛奥喜兵衛
75(明治8) 下山村と粟倉村が合併し、福居村となる
75(明治8) 睦沢学校(現藤村記念館=甲府市)/松木輝殷
76(明治9) 舂米学校(現民俗資料館=増穂町)/松木高造
92(明治25) 大火災により福居村役場と村の過半数が焼失
93(明治26) 福居村仮役場(常福寺)と山額地区全焼、疫病の流行
96(明治29) 度重なる災害からの民心の一新を願い、名称を下山村に
1900 07(明治40) 大水害により家屋30数戸流失、富士川沿いの田の大半を失う
07(明治40) 本国寺の木鼻獅子/松木輝殷
1950 55(昭和30) 身延町、豊岡村、大河内村、下山村が合併して身延町に
2000 04(平成16) 中富町、下部町、身延町が合併して身延町に

【参考文献・資料】
『身延町誌』 『中富町誌』 『下山大工史資料』(加藤為夫編) 『下山大工と太子講の成立』(白子昇) 『山梨百科事典 増補改訂版』 (山梨日日新聞社)など

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