下山大工 |
巨摩郡河内領下山村(南巨摩郡身延町下山)は、中世下山氏、穴山氏の館を中心として発達した中世都市です。 近世は、富士川舟運を通じ身延山詣でをする多くの人々の宿、また物流の中継点として栄えました。 下山にはもう一つ下山大工の在所であるという顔があります。 下山大工は、中世の町屋や社寺の建設に携わっていた大工が、中世以来身延山造営のため、高い宮大工とし技術を継承していた身延山大工の技術を習得し、江戸時代の中ごろから国中地域の全域にわたりその活動圏を広げ、多くの寺社を手掛けるようになり、在所の名から下山大工と呼ばれるようになりました。 活動圏の拡大過程では争いもおこりましたが、文政6年(1822)下山村大工は308人にも及んでいたことが記録されており、建築にかかわるさまざまな職種が集合する大規模な大工集団に発達していたことがわかります。 下山大工の手掛けた建築は、甲州流とも呼ばれ昭和30年(1955)に焼失した重要文化財甲府金桜神社の神楽殿(石川政五郎、七郎左衛門)に代表され、現在でも など、江戸時代後半から明治の建築にもかかわらず、重要文化財や山梨県指定文化財に指定され高い評価を受けています。 下山大工の手掛けた建築は、 などで次第に明らかにされてきましたが、建築に直接かかわった大工資料からの検討は著についたばかりで、山梨県の建築文化を築きあげた下山大工の総合調査研究体制の整備と資料の保全、公開施設の設置が望まれます。 |