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木喰上人入門

もくじきしょうにんにゅうもん
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メジャーデビュー~木喰仏再発見のおはなし ]

■メジャーデビュー ~ 木喰仏再発見のおはなし

 ここまで木喰さんという人物のことを、簡単にみてきました。 その風貌(ふうぼう)や生き方について、想像の世界が広がったことでしょう。
 木喰上人の名前は、山梨の歴史を知る上で欠くことのできない大切な文献(ぶんけん)である『?語彙集斐国志(かいこくし)』のなかにも、見つけることはできません。 でも今日、私たちが木喰さんについていろいろ知ることができるのは、偶然(ぐうぜん)というべきか、運命というべきか、ともかくひとつのできごとのおかげです。
人々の間にひっそりと生き続けて
 木喰さんは全国を旅し、各地にたくさんの仏像を遺していますが、ほとんどの土地は短い日数の滞在で立ち去って行きました。 立ち寄った土地も、大きな町より地方の農村や小さな集落が多く、そこに住む人たちにとって木喰さんは「病気を治(なお)してくれ、仏像を彫ってくれた、ありがたい旅のお坊さん」ということで、家や集落、村という小さな世界で静かに語り継(つ)がれていた、そんな存在だったのではないかと思います。
 さらに、木喰さんの生きた江戸時代の後半、またそれに続く明治のころには、江戸時代よりもっと昔、奈良時代や平安時代などに造られた仏像は芸術的な価値のあるものとして大切に扱(あつか)われました。 専門の?語彙集師(ぶっし)が造る仏像です。 でも木喰さんのような?語彙集行僧(ゆぎょうそう)が刻んだ小品は、庶民(しょみん)の生活用品、つまり農具や台所用具と同じくらいにしかみなされていなかったようです。
 もちろん、木喰さんの仏像を安置(あんち)していたお寺や?語彙集仏(うちぼとけ・ないぶつ)を持っていた人々は、大切に保管していたことでしょうが、信仰(しんこう)のためのものではあっても、鑑賞(かんしょう)するための芸術品とは思われていなかったのです。
取り壊された四国堂
 このあと「身延に遺る木喰上人の作品」のページで触れますが、木喰さんが最後にふるさと丸畑に戻(もど)ってきたとき、地元の人たちに熱心に頼まれ、四国堂(しこくどう)という小さなお堂を建て、八十八体の仏像を刻んで納(おさ)めました。 享和2(1802)年のことです。 しかし、年月の経過とともに、人々の間で信仰心(しんこうしん)が薄れてしまったことや、四国堂の建物や中に安置された本尊の所有をめぐっての仲たがいが起きたことなど、いろいろなことが重なって大正8(1919)年、ついに四国堂が取り壊されてしまったのです。 木喰さんの造った仏像も建物に使われていた木材も売り払われ、あちこちへと散り散りになって行きました。
柳宗悦の登場~木喰上人研究の歴史が始まる~
 こんなふうに、別れ別れになった八十八体の仏像ですが、その一部を小宮山清三(こみやま・せいぞう)という人が手に入れました。 その小宮山清三の家を、柳宗悦(やなぎ・むねよし)という人が訪れました。 大正13(1924)年1月のことです。このとき、小宮山清三と柳宗悦はまだ知り合いではなく、ふたりの共通の友人である?語彙集川巧(あさかわ・たくみ)が、柳宗悦を小宮山清三のもとへ連れて行ったのです。 もちろん、訪問(ほうもん)の目的は別の理由でした。
 最初に小宮山家を訪れた日は、小宮山清三が留守(るす)で会うことができず、その翌日に初めて対面しました。 そして柳宗悦は家の中に招(まね)き入れられたわけですが、廊下(ろうか)を歩いていて文庫蔵(ぶんこぐら)の前を通りかかったとき、何気なく視線を向けた先に木喰さんの造った仏像があったのです。 柳宗悦が木喰仏の魅力(みりょく)にとりつかれた、記念すべき瞬間です。
柳宗悦 (やなぎ・むねよし) 小宮山清三 (こみやま・せいぞう)
 明治22(1889)~昭和36(1961)年。 東京生まれ。 民芸(みんげい)運動の創始者(そうししゃ)。
 日常生活でごくふつうに使用される道具のなかに美を見出し、工芸のひとつの分野ととらえ、「民芸」という言葉をあてた。 朝鮮(ちょうせん)文化への造詣(ぞうけい)が深く、朝鮮半島の陶磁器(とうじき)の研究家、 ?語彙集川伯教(あさかわ・のりたか)・巧との接点がここにある。
 昭和11(1936)年に日本民藝館(にほんみんげいかん)設立。
 明治13(1880)~昭和8(1933)年。 現在の北杜市白根町生まれ。 池田村(甲府市池田)村会議員、村長の職を経(へ)て、県議会議員に就任(しゅうにん)。
 農業、青年団、消防などの近代化に尽力(じんりょく)し、特に近代消防においては国のリーダー的存在で、全国を講演して回った。
 柳宗悦の目にとまった木喰仏は、小宮山氏が桜町(甲府市)の骨董(こっとう)店で買い求めたもの。

木喰仏をさがせ!~一気に進んだ木喰研究~
 柳宗悦は小宮山清三から木喰仏のひとつを譲(ゆず)り受け、ますますその魅力にはまって、ものすごい勢いで木喰さんの研究を始めました。 まずは丸畑を訪れ、遺品(いひん)の文書(もんじょ)類を研究し、日本各地に遺る木喰さんの痕跡(こんせき)を探して廻(まわ)り、わずか2~3年のうちに研究成果をまとめたものを発行しました。 小宮山清三を代表に、木喰五行研究会も発足し、甲府や東京で盛大(せいだい)な展覧会も開かれました。
 柳宗悦によって紹介された木喰さんの仏像は、たくさんの人々を魅了しました。 ちょっとした木喰仏ブームがおこったのです。 大正という時代の風潮(ふうちょう)が、木喰さんの仏像の素朴(そぼく)さや庶民(しょみん)性を理解し、求めたのかも知れません。 また、全国各地に眠る木喰仏を次々に発見することに、ドキドキわくわくした気持ちを味わう楽しさもあったのでしょう、木喰仏がいろいろな場所で確認されたのです。
 丸畑の四国堂が解体され、仏像が散り散りになってしまったことは残念なできごとでしたが、散り散りになったことによって木喰仏は柳宗悦と出会ったのです。 柳宗悦の熱心な研究がなければ、木喰さんに今のような全国区の知名度の高さはなかったでしょう。 その研究の成果は、およそ80年が経った今でもなお、木喰さんについて調べたり語ったりするときの、大切な土台になっているのです。 柳宗悦は、すっかり木喰仏に心を奪われていたので、ときにははっきりとはわからないことについて実際よりも美化した空想で補(おぎな)ったりもしたでしょう。 もちろん、そんなことを差し引いても、柳宗悦の業績(ぎょうせき)の偉大さは疑いのないことです。
木喰さんフォーエバー
 柳宗悦により超高速で進んだ木喰研究でしたが、木喰さんのことについては、まだまだ、謎がいっぱいです。 たとえば?語彙集国(かいこく)の旅に出る以前のことはほとんど知られていませんし、90歳で甲府の?語彙集安寺(きょうあんじ)のために?語彙集観音を刻んだあとのことも、まったく不明です。 いつ、どこで生涯(しょうがい)を終えたのでしょうか? 甲府まできていながら、丸畑に戻らなかったのはなぜでしょう?
 この先、少しずつでも、このような謎が解明されていくといいですね。 直に木喰さんに問うたならば、何と答えるでしょう? 「そんなこた、どうでもいいわなぁ」などと、明るく、かるーく笑い飛ばされそうな気も…しますよね。

 さて、柳宗悦と木喰仏との出会いは偶然でしょうか? 運命だったのでしょうか?
(「木喰上人入門」終わり)

【参考文献・資料】

『下部町誌』(下部町誌編纂委員会) 『新装・柳宗悦全集9 木喰上人』(日本民藝協会・春秋社) 『木喰の旅』(山梨日日新聞社) 『郷土史にかがやく人々 集合編(Ⅱ)(Ⅲ)』(青少年のための山梨県民会議) 『山梨百科事典 増補改訂版』 山梨日日新聞社) 日本民藝館WEBサイト

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