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街道のようす
〜町内の宿と街道沿いの史蹟〜


かいどうのようす
〜ちょうないのしゅくとかいどうぞいのしせき〜
[鰍沢町箱原〜西嶋 | 手打沢〜切石 | 八日市場〜飯富 | 下山 | 身延〜榧の木峠]

手打沢から切石までのルート手打沢から切石まで


手打沢(てうちざわ)

 昭和10(1935)年9月の富士川流域の大水害により旧道の東側200mが流失したのち、現在のルートに変わっています。 手打沢橋手前を右に入る道は、手打沢川沿いに大塩(おおしお)に出て、柳川(やながわ)を経て青柳(あおやぎ=増穂町)に通じていた中世の河内路です。

1甲斐の土橋(つちはし)・乙女(おとめ)茶屋 鋳物師屋(いもじや)集落。 手打沢の出口にかかっていた土橋近くに、明治の初めごろにあった茶屋で、身延山参詣(さんけい)客、富士川水運の船頭(せんどう)や乗客の休息場所として栄えました。 また、両替を行なう茶屋としても有名だったそうです。

寺沢(てらさわ)

2菅沼(寺沢)城跡 寺沢字雁帰(がんぎ)。 天正10(1582)年、?語彙集山信君(あなやま・のぶきみ)が山城国(やましろのくに)宇治で滅亡した後、家康が武田家旧臣の岡部正綱(おかべ・まさつな)に命じて築かせたものでので、腹心菅沼定政(すがぬま・さだまさ)が守備に当たったことから菅沼城と呼ばれました。 城郭(じょうかく)は東西約180m、南北144mで、東側は絶壁(ぜっぺき)となっていて、その絶壁と富士川の間をみのぶみちが通っていました。 天正18(1590)年に菅沼定政が総州相馬(そうしゅう・そうま)に移封(いほう=領地を移動すること)され、慶長7(1602)年に取り壊されたといわれています。 現在は中富中学校敷地になっています。

3信玄(しんげん)の洗濯(せんたく)石と白山権現(はくさんごんげん) 菅沼城の絶壁が富士川に迫る崖(がけ)下に一枚岩があり、信玄の洗濯石(手洗石)と呼ばれています。 菅沼城跡は、信玄の時代には狼煙台(のろしだい)もあり、信玄の兵が崖道を下って洗濯をした場所と伝えられています。 また、信玄が身延攻略の帰路、戦塵(せんじん)を洗い落としたという言い伝えもあります。 岩は、昭和41(1966)年に国道が拡張された時に、埋(う)もれてしまいました。
菅原城址への崖道の登り口には、歯痛止めの神として崇拝された白山権現が祀(まつ)られていました。 これは、身延攻略の帰路、歯痛をもよおした信玄が祈願して治癒(ちゆ)したという言い伝えがあり、白山という名前は「歯苦山」からきているということです。

切石(きりいし)

 街道の北側より上宿、中宿、下宿と町並みが続き、八日市場(ようかいちば)宿と交替で勤め、上15日を担当していました。 『?語彙集斐国志(かいこくし)』によると、鰍沢宿まで二里二六町、本馬一七八文・軽尻一二二文・人足八七文、下山宿まで一里二三町、本馬八四文・軽尻五六文、人足四二文の定めでした。  天正8(1580)年の文書に伝馬継ぎとしてあげられた宿(江尻・興津・由比・内房・万沢・南部・下山・岩間・甲府)に切石の名前はなく、いくつかの資料から寛永年間(1624〜44)に開設されたことが推定されています。

4 旧本陣(ほんじん)跡(名主宅) 中宿。 切石は小さな宿だったので、名主(なぬし)宅が本陣を兼ねていました。 本陣とは、大名などの公人が宿泊したところです。

5切石河岸(かし) 中宿と下宿の間を流れる夜子沢(よごさわ)が富士川に合流する河口の両岸にあり、富士川舟運の中継河港(かこう)として栄えました。 また、昭和に入るまで、早川入りへの物資はここから荷揚(にあ)げされ馬で運ばれていました。

6年越(としこし)の松 日蓮宗善妙寺(ぜんみょうじ)の境内(けいだい)にあった松で、日蓮聖人が布教(ふきょう)の途中、立春の前夜にこの寺に泊まり、節分会(せつぶんえ)の豆まきをして記念に手ずから植えました。 年越しの日に植えた松ということで、年越の松と呼ぶようになったと伝えられました。 松は大正14(1925)年に枯れてしまい、現在のものは二代目です。

日下り道(ひさがりみち)

 切石宿の南から1.2kmほどの区間を日下り道と呼び、新道切通(しんみちきりとおし)と並ぶ難所(なんしょ)でした。 造られたの時期は不明ですが、江戸時代を通じて巾九尺(約270cm)の岩切り道であり、絶(た)えず手を加えなければならない危険な道でした。 特に安政の大地震(1855年)で崩(くず)れ落ちた時の工事は大がかりだったといいます。

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