身延道 トップページ > 歴史と道筋

みのぶみち 〜歴史と道筋〜

みのぶみち 〜れきしとみちすじ〜
[1. 甲斐九筋 | 2. 河内路・みのぶみち・駿州往還 | 3. みのぶみちの道筋]
[4. 大聖寺の言い伝えと日蓮入山 | 5. 武田信玄以後 | 6. 険しい道]

2. 河内路・みのぶみち・駿州往還
 ?語彙集斐九筋(かいくすじ)のうち、身延町を通っていたのは河内路(かわうちじ)です。 河内路という呼び名の通り、河内領(かわうちりょう)を縦断して駿河(するが)に通じていました。 ほぼ今の国道52号線と同じルートです。 河内路にはまた、身延山久遠寺(みのぶさんくおんじ)を参詣(さんけい)する旅人が通る道でもあったために、「みのぶみち」という呼び名もあります。
 さらに、駿河に通じる道であることから「駿州往還(すんしゅうおうかん)」とも呼ばれました。 「往還」と呼ばれた道には河内路のほかにも「秩父(ちちぶ)往還」「佐久(さく)往還」などがあります。 「○○往還」というのは、「○○との間を往(ゆ)き来する道」という意味です。 ですから駿州往還も、駿河側(がわ)からは「甲州(こうしゅう)往還」と呼ばれていました。

 駿河の国は古くから甲斐にとって、奈良(なら)や京都(きょうと)、大阪(おおさか)や江戸(えど)などの都や大きな町への表玄関(おもてげんかん)でした。 甲斐と中央を結ぶ主要な経路には時代による変化がありましたが、右左口路(うばくちじ)、若彦路(わかひこじ)、鎌倉街道(かまくらかいどう)と、いずれも駿河を経由するものでした。

 みのぶみちは、甲斐と駿河をつなぐ道としてはいちばん西側にあります。 駿河へのほかの経路はすべて、海抜(かいばつ)1000メートルを越(こ)えるような峠(とうげ)を通る厳しい道筋でしたが、河内路の道筋は主に富士川(ふじかわ)に沿って切り開かれたものでした。

前ページへ  次ページへ  トップページにもどる