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笠井重治さん |
かさい・じゅうじ |
明治19(1886)-昭和60(1985) 身延町西嶋生まれ |
13歳で県立甲府中学校に入学します。 笠井重治さんが晩年(ばんねん)に著(あらわ)した「甲府中学校創立百年記念に際して」には、「(略)…西島尋常小学校卒業の時は一三歳で、中学受験資格の年令に達していなかったのを、広弾院住職曹洞宗甲府中学教諭、越賀悦翁先生の願書作成により受験し合格したのでした。 従って学年最年少であり、体格も小さかったのでチビといわれたのです」とあります。 甲府中学校の1年上級には石橋湛山(いしばし・たんざん)が、同級生には文学者、中村星湖(なかむら・せいこ)がいたそうです。 明治36(1903)年に甲府中学校を卒業すると、8月にアメリカ西海岸のシアトルへ渡ります。 明治39(1906)年10月、シアトル・ブロードウェーハイスクールの雄弁(ゆうべん)競争会で最高雄弁賞を受賞し、学校の代表となります。 明治40(1907)年5月には、ワシントン州連合雄弁競争会で最高雄弁賞を授与(じゅよ)されます。 明治41(1908)年、21歳のとき、シアトル、ブロードウェーハイスクールを卒業しました。 大正2(1913)年のシカゴ大学政治学科卒業に際し、演説『太平洋の優越感(ゆうえつかん)』(原題『The Mastery of the Pacific』)と題し演説をしました。 太平洋沿岸の排日(はいにち)運動に対して、アメリカ国民の正義心に訴(うった)えんとした内容で、最高雄弁賞と賞金を授与されました。 また、カーネギー平和財団および日本政府からも表彰されました。 大正4(1915)年にはハーバード大学を卒業しました。 |
笠井重治さんの演説 | 話のとちゅう ですが… |
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笠井重治さんの弁論・演説の技量(ぎりょう)はアメリカ留学時代、二十歳のころにはすでに開花し、その能力は生涯にわたり余すところなく発揮されました。 そんな笠井重治さんの演説とはどのようなものだったか、それをうかがい知ることができる記述があります。 筆者の笠井盛男さんは当時まだ小学生、強く印象づけられたようすが伝わります。 |
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ハーバード大学卒業の年、『パシフィック・プレッス』次長に就任(しゅうにん)し、3年半在職しました。 『パシフィック・プレッス』は外務省が排日運動の対抗のため、サン・フランシスコに置いた宣伝(せんでん)機関です。 大正6(1917)年には日米協会を創立、大正7(1918)年には東京の日米関係委員会の幹事(かんじ)に就任します。 大正8(1919)年にはワシントン第1回国際労働会議、大正10(1921)年にはワシントン海軍軍縮(ぐんしゅく)会議のために渡米しています。 大正11(1922)年にはイギリスを訪問して英国実業家の排日運動緩和(かんわ)に努め、ドイツ、フランス、イタリアを訪れインドを経て帰国します。 大正13(1924)年、英文印刷の国際出版印刷株式会社を創立しました。 昭和4(1929)年、東京市会議員に当選、昭和6(1931)年には東京市参事会員に当選します。 昭和8(1933)年にふたたび東京市会議員に当選し、東京市オリンピック招致(しょうち)のため活躍しました。 昭和10(1935)年、フィリピン協会を創立し理事に就任します。 昭和11(1936)年、第19回総選挙にて衆議院議員に当選、第32回列国議会同盟(どうめい)会議(ブダペスト=ハンガリー)に議員団員として参列し、代表演説を行ないました。 昭和12(1937)年、第20回総選挙で衆議院議員に当選しました。 昭和13(1938)年、第34回列国議会同盟会議(ハーグ=オランダ)に議員団員として参列し、代表演説を行ないました。 また、第23回万国議員商事会議(ワルシャワ=ポーランド)に議員団員として参列しました。 昭和16(1941)年、日米大戦回避(かいひ)のためアメリカ各地にて講演、交渉(こうしょう)を行ないました。 帰国後、首相(しゅしょう)東条英機(とうじょう・ひでき)、石橋湛山、グルー米大使、近衛文麿(このえ・ふみまろ)公らと会見し、大戦回避のために動きました。 昭和18(1943)年、57歳のときに北海道帝国(ていこく)大学医学博士の葛西とも(とも子)さんと結婚しました。 昭和20(1945)年9月、連合軍総司令官マッカーサー元帥(げんすい)を訪問します。 GHQ進駐軍(しんちゅうぐん)の将士(しょうし)をのべ500人以上自宅に招待(しょうたい)するなどして、日本のために善政(ぜんせい)を要望しました。 昭和22(1947)年、日米文化振興会を創立し会長に就任、日比谷(ひびや)公会堂においてアブラハム・リンカーン誕生記念大会を挙行(きょこう)しました。 昭和25(1950)年、GHQの日本人に対する渡米(とべい)許可の第1号を得て、ワシントン大学、シカゴ大学、全米在郷(ざいきょう)軍人会などで講演を行ないました。 昭和32(1957)年、昭和34(1959)年にフィリピンを訪問しています。 昭和34(1959)年には日比谷公会堂にてリンカーン誕生150年祭祝賀(しゅくが)会を開催しました。 昭和38(1963)年、戦後2度目の渡米をし、シカゴ大学やシアトル、ロサンゼルスのロータリークラブで演説をしました。 昭和43(1968)年、日米文化振興会が外務省(がいむしょう)社団法人(しゃだんほうじん)として許可されました(認可第1号)。 日米文化振興会は現在日米平和・文化交流協会に名称を変えています。 昭和46(1971)年、シドニーでの国際ロータリー大会に参列し、日豪(にちごう)親善(しんぜん)のための講演をしました。 昭和51(1976)年、フォード大統領来日を記念し、『日米新時代』(原題『The New US-Japan Era』)を出版しました。 昭和60(1985)年4月10日、世田谷区松原の自宅で亡くなりました。 98歳9ヶ月でした。 葬儀(そうぎ)は自宅にてマンスフィールド駐日アメリカ大使、元首相福田赳夫(ふくだ・たけお)氏会葬のもとに行なわれました。 多磨霊園(たまれいえん)に墓所(ぼしょ)があります。 |
笠井重治さんのおひとがら | もう少し補足 しますと… |
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『笠井重治追悼録』のなかで、編集者である甥(おい)の笠井二郎さんは、業績(ぎょうせき)をたどるだけではなかなか見ることのできない笠井重治さんの素顔(すがお)について、いろいろと書き綴(つづ)っています。 その一部を紹介します。 | |||
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関連資料 |
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リンク
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【このページの参考文献・資料】 『笠井重治追悼録』 『笠井家哀悼録』 |